2015年8月24日月曜日

3.11の記録 12日

夜眠った時間は12日になっていたと思うが、その日の朝も早くに目が覚めた。6時か7時ごろではなかったかと思う。
家族の事は心配であるが、今の時点では全く情報がないし、どこにも連絡はつかない。
あれこれ余計な事を考えるだけ無駄なことである。
考えてしまえば、いたずらに不安感だけが肥大してしまいそうで、逆にその方が恐い。
そう思う中で、とにかく今自分には何が出来るのか。あえてそこに考えを集中させるように意識した。
目は覚めていたが、まだ布団の中で考えを巡らせていた。

今は東京に住み家はなく、孤立した状況とは言え、30年も暮らした東京の地である。そんな中で縁ができて関わったものに、在関東陸前高田人会というものがあった。
この会は陸前高田市出身者による「ふるさとの集い」というもので、25年来の歴史があるものだ。毎年都内のホテルの宴会場を借り切り、300人前後が集まって語らうという懇親会が行われていた。
奇しくも2010年の11月には品川新高輪プリンスホテルの飛天の間という、あの松田聖子さんが結婚披露宴を催した大ホールを借り切り25周年の記念イベントを行った。
この時、ゲストには地元出身の歌手である千昌夫さんを招き、参加者も地元からも中里市長、市会議員や衆議院議員の黄川田氏など総勢約450名が参加という盛大な催しとなった。
その高田人会の世話役というものに自分は関わっていた。

この高田人会は陸前高田市の各町ごとに世話役があり、町ごとにまとめの役割を担うことになっている。そもそもが、この会の前身に各町ごとの懇親会が存在しており、歴史は高田人会より長い。発端は広田町出身者の集まりから広田人会が組織され、続いて隣に当たる小友町出身者による小友人会が出来上がったと聞いている。その後他の町でも個別に会は立ち上がったらしいが、なぜか高田町独自での会が形成されず、全体が一つとなって高田人会という形が出来上がったらしい。
その際、広田町、小友町の人間が先導して高田人会が出来上がっていったというように聞いている。

小友町出身者である自分も、始めは小友人会の幹事という立場で関わっていたのがきっかけであった。全体の集まりである高田人会とは別に、個別の町ごと懇親会は続いている。
特に小友人会は2年に1度とはいえ、毎回80人から100人前後は集まるという、町会としては郡を抜いて参加者が多い集まりだった。
やはり世代を超えて顔を合わせるのであるから、いくら同郷とはいっても陸前高田市全体の中では、まったく知らない人の方が多くなる。それに比べれば、町単位での集まりなら、まだ知り合いレベルで話しが出来そうな空間にはなるのだ。
今まで会った事はなくとも、「ああ、あそこの家の人か、親戚とも関係あるんだ」というような事が往々にしてあったりする。そこにいる人は皆同じ小学校、中学校に通っていたのであり、遊んでいた場所も同じという、共通項が多いというのが田舎の町たる証しでもあると言える。

こういった懇親会に集まる人というのは、どうしても高齢者中心になっていた。郷里を懐かしんで集まるというには、若い世代ではまだそこまで思い入れのない事なのだろう。
なんと言っても、自分が幹事で参加したときが最年少だったのに、あれから10年経っても最年少のままであるというのが物語る。

話が大分それてしまったが、その小友人会で幹事をやっていたことが、この日からの行動を決定づける要因となったのだった。


2015年8月7日金曜日

3.11の記録 当日夜

夕方になって、会社帰りの人々が街に溢れ出てくると、歩道は見たことのない人の群れが行進する長い行列となった。
途中、外から覗けるテレビなどを見つつ、ツイッターの確認をしながら歩いたが、相変わらず地元の情報はどこからも得られない。わずかに覗けたテレビではどうやら津波も発生したという事が分かったぐらいだった。
そのうち、気仙沼で火災が起こっているという情報が入り、だんだんとただならぬ雰囲気が街に溢れかえってきたようだった。
途中、コンビニに寄って飲み物か、ちょっと食べるものを買おうかと思ったが、棚には食料品の類いは全く無くなっていた。自動販売機も売り切れのランプが赤く光るばかりだった。
辺りが暗くなった頃に、東京駅周辺に近づいた。その頃には大通りの歩道からも人ははみ出し、アリの大群のような黒い影が、黙々と歩く異様な光景となった。これだけの人がいるのに、全体の空気は重々しく、帰宅を急ぐ足取りの音だけが響いていた。
友人からのメッセージで「東京駅からバスがあるんじゃないの」と言われたが、いざ駅についてみると、そのバスに乗るために並んでいるどの列も100メートルほどにも及んでいた。
これを待つ時間があるのなら、歩いた方がよいと思うしかなかった。

白金方面から目黒方向に抜けて、友人宅にたどり着くころには夜中の10時過ぎになっていた。
秋葉原を出てから、ほぼ4時間強といったところだろうか。

何も分からないまま、とにかく歩いた。あまりに情報がない中で、何を考えても無駄だと思った。気がかりなのは津波がどの程度のものなのかだ。聞こえてきた話では10メートルを超す、というが、それがどこのことかもわからないままだった。

友人宅では、鍋にお酒も用意してくれていて、ひとまず落ち着いて状況をみようということになった。
テレビでは気仙沼の火災の様子が映し出されていた。しかし陸前高田についての情報は、この時点でも一切でてこなかった。しばらくすると13メートを超える津波が三陸沿岸を襲ったというニュースがあった。

「13メートル!!」

一瞬想像がつかなかったが、防潮堤の倍以上の高さである。その津波が襲ったということは、二階建ての家なら水中に没する規模だということだ。
これは尋常ではない。大変な事が起こっている。
正直、まだ大丈夫かもしれない、と思っていた気持ちはいっぺんに吹き飛んだ。

もちろん、自分の家もどうなっているか分からない。防潮堤から1キロの距離で、波がどのような状態になるのか見当もつかない。それでもただでは済まないだろうという予想はできる。
もし、そうであっても、家の裏から山の方に車で逃げたら大丈夫だ、という思いはあった。
両親と、妹家族が、とにかく逃げていてくれ。

そう願うしかないまま夜はふけていった。
用意してくれたお酒はいつも以上に飲んでいたかもしれないが、まったく酔った感じにはならなかった。
新しいニュースが出てこないとなってから布団に入ったが、寝たのかどうかも今となってはよく覚えていない。


2015年8月5日水曜日

3.11の記録 地震発生当日

何度かの余震が続く中、秋葉原の駅前に移動。
その間Twitterを確認すると、震源地は三陸沖だと分かった。
地元のフォロワーのツイートでも、「地震大きかった」とか「びっくりした」とかの書き込みがあったが、それ程の緊迫感は伝わってこなかった。
妹にも様子はどうかとメールを入れた。

震度5を経験したときは、実家の土壁の一部が崩れた。当時は商店をしていたので、商品の瓶が何本か割れたぐらいのものだった。
それ以上の地震が来ても、そうそう家が倒壊するようなことはないはず。裏の庭に出ていれば、命に関わることはめったにない、というのが確信としてはあった。
ツイッターの様子からも、地震は大きかったけど、大混乱が起こっているような気配は感じられなかった。

それよりも、地元の感覚では地震よりも津波の方に意識が向けられる。
幼少より、津波の恐さを意識付けられて育ってきた。
それというのも、50年前の1960年5月に南米チリで起こった地震によって、三陸沿岸は津波の被害にあっていたからだ。
チリ地震津波の記憶は、親の世代にとっては忘れられない大惨事であった。
しかも、我が家はその時に家ごと津波に呑まれ、眼前に広がる広田湾を横断し、対岸の突端でもある唐桑半島の先まで流された。

父は自力で家を再建し、一年後の4月に私は生まれた。
その当時は実家の目の前には浜が広がり、波打ち際まで歩いて行ける距離だった。
津波の後、もとの海岸線から一キロほど海側に6メートルを超える防潮堤が建てられ、実家の前は広大な干拓地となった。
元は海であるから、塩害によって作物は育たず、何も手を加えることなく放置されていた。物心ついた時にはそんな状態で、広い野原は遊び場になった。子どもの頃の記憶にはそこを自転車で乗り回していたり、野球をしたり、農薬散布のヘリコプターが飛び立つのを見に行ったりした。

6メートルの防潮堤は、このチリ地震津波の波の高さから決められたもので、陸前高田市の津波被害による海岸線にそびえるように建てられた。

地震が起これば、津波が来る。
標語のように意識付けされた思いは、地元の人間であればなんとなく分かることだろう。

三陸沖は地震が発生しやすい。そこは太平洋のプレートが沈み込む場所だからだ。
地震が起こる度に、津波を警戒する意識は高まる。津波警報と避難場所には日頃から注意を払い、実際に避難する場合もあった。
しかし、生まれてこれまで、防潮堤を脅かすような津波が起こったことはなかった。
予想ではメートルを超すという情報が流れても、実際には50cmぐらいだったりと、
本当にメートルを超すような津波が押し寄せたという記憶がない。

これではまるで寓話のオオカミ少年のようである。
いつしか、どうせそんなものだろう、チリ地震津波を超えるような津波がそうそうくるもんじゃない、という気持ちが芽生えてもおかしくはない。

まさしく、その時の自分も、「地震はまあ大丈夫だろう。津波がくる危険性はあるが、あの防潮堤を越える程ではないだろうし、実家は海岸から1キロ離れてるわけだから、ちょっと波が超えてきたとしても、逃げる余裕はあるだろう」ぐらいに思っていた。

大げさではなく、本当にその程度だと考えていた。

地震の影響で、都内は電車が止まり、どこにも移動できなくなった。かといって、余震もあると思うと、どこかの店内に入るというのもはばかられた。1時間も待ったら、電車も動くかもしれないと思い、ネットの情報とツイッターやSNSなどを見ていたが、地震直後には書き込みがあった、地元フォロワーの書き込みが全くなくなった。

おかしいなと思い、メールやダイレクトメッセージなどでコンタクトを取ろうとしたが、まったくリプライがない。電話も繋がらない。
その時点では、結構大きな地震だったから、電話回線も混雑して繋がらない状態なんだろうと思っていた。
連絡手段として活きていたのは、ツイッターとPHS回線がかろうじてという状況だった。
東京の友人とツイッターで連絡し合い、TVやラジオで流れている情報を聞いたりした。

5時頃になっても電車の動く気配はなかった。
この様子では、いつまで待っていてもラチが空かないな、と思い始め、連絡を取り合っていた目黒区に自宅のある友人の所まで歩くことにした。

秋葉原から東京方面に向かい歩き出したのが、6時頃だったと記憶している。
そこから前代未聞の東京帰宅難民行列が始まったのだ。




2015年8月3日月曜日

3.11の記録 2010年10月

出版不況の波に翻弄され、精神的に追い詰められて書店を閉店してから3年ほど経った2009年。
フリーで仕事と言えば聞こえは良いが、実際は定期収入も満足に得られず、生活はパートナーに頼らざるを得ない状況が続いた。
自分自身がそういう状態を招いたことと、そこから浮上するきっかけも摑めずにいることに耐えられなくなった事もあり、とうとうパートナーとも別れることとなった。

自分が培ってきたものを全て無くしたという絶望感で、うつになりかけもしたが、逆に堕ちるところまで堕ちたという開き直りも芽生えてきて、まずは生活の立て直しを図ることとした。

フリーの仕事の性質上、パソコン一台あればなんとかなるという事で、東京での家賃分を考えたら、打合せで東京と実家を往復する費用の方が安くつくだろうという算段のもとに、田舎での仕事も見据えて、2010年心機一転、一旦実家の陸前高田に居を移すべく、準備を始めた。

その夏、東京の住居を引き払い、荷物を全て実家に運び、いよいよノマドワーカーの生活に入った。
月に1回から2回の打合せをするため上京し、は安いビジネスホテルで1〜2泊するという暮らしが半年ほど続いた。
その年、知り合った現在のパートナーが、2世帯住宅になっていた母方の実家に住むということで、2011年には、上京したときはそこを宿とさせてもらうこととなった。

そんな状況で、3月11日が訪れた。

確かその週の月曜か火曜、7日か8日に東京に着いて打合せをして、10日には帰るはずだったが、資料がまだ揃っていないから、もう一度打合せしましょうということで、2、3日帰るのを延期した。
11日は、昼過ぎから秋葉原に買いものに出ていた。
実家にあるパソコンのデータに、やはり持ち歩きたいものがあったので、ポータブルのハードディスクを購入しようと思ったのだ。
秋葉原のパーツや小物などを扱う多くの店舗がある1角で、ハードディスクを購入し、店内を物色していたとき、地震が発生した。
三陸は昔から地震発生率は高い。高校生の時には震度5を経験し、授業中に校庭に避難したこともある。
そのぐらいまでなら、大丈夫という気持ちがあったが、この時はさすがに尋常じゃないぞと思って、店内を出て近くの駐車場の辺りまで歩いた。
少しでも広い場所に行こうという思いだった。
電信柱がかなり大きく揺れて、見上げるとビルの揺れも確認出来た。

これは、いままで東京に居た中でも経験のない大きな揺れだった。
ちょっとヤバイんじゃないか、という気持ちが僅かに芽生えたように思う。
その時はまだ、どこが震源地なのか何も分からなかった。


2015年7月30日木曜日

3.11の記録 始まり

2011年3月11日 午後2時46分

今世紀に入って未曾有の大震災が東北に発生した。
あれから既に4年が経過したけれど、あの日の事はつい昨日のように蘇る。
その日から約2年間、私は突き動かされるように復興支援の活動に没頭した。

実家も財産も失い、それでいて30年以上過ごした東京を軸にした活動。自分が被災者でありながら、外部からの支援活動に身を投じたという、不思議な立ち位置に居たことで見えていた風景は、もしかしたら、ちょっと違った視点を与えてくれたかもしれない。

震災については、多くの方が記録として残していることと思うが、被災者それぞれ、または支援者、そこに関わる全ての人々一人一人に、忘れ得ない事実があるはずだ。
一人の目から見えた現実も、震災を語る上で、何かの役に立つかもしれないと思い、記憶を辿ってみることにした。

時系列としては、震災の日から書き出すべきかもしれないが、自分の行動を司る意識がどこにあったのかを記すためには、少しばかり時間を遡る必要があると思う。
振り返ってみれば、その経緯があったからこその行動であったとも言えるからだ。

時間は2010年。震災の一年前の東京から。